Still Life

生活の記録。

人の子の親となりて

家族である気安さからか、何度か実母へのモヤモヤをブログに吐露しています。

わたしが人のことを嫌いだと思った時は、その嫌いな部分というのが自分自身の嫌いな部分だったということが多いです。自分の親ともなるとその嫌いな部分というのがもう鏡のように自分を映していて、余計に嫌になるのだと思います。

わたしも40代になり、それなりに働いて、そのうえ驚くべきことですが人の子の親となり、すっかり母には対等にでもなったつもりになっていたのですが、甘えられる存在だとわかったうえで思ったことをぶつけてしまう、わたしはまだまだ子供のようです。

母の父母、わたしの祖父母ですが、洋装の写真が残っているようなモボ、モガでした。
女も職を持つべきという祖父母の考えのもと、集団就職の時代に大学を出た母。結構なお金持ちだったようです。
しかし結婚後は夫婦で貧乏生活を頑張っていたようです。夫婦で住んでいたという「船橋の家」はよく母の思い出話に登場します。

母の思い出話は話す側も聞く側もしょっちゅう横道にそれるので、こうして記事にしようとすると断片の寄せ集めのようになり、正確に再現されないとは思いますが、まあいいでしょう。

その思い出話には、「船橋の家は隙間風がひどかった」というフレーズが何度も登場することから、相当な貧乏生活だったようです。母の職場の敷地内にあり、2世帯が一緒に住んでいる長屋のような貸家だったようです。小遣いさん用の施設だったのかと聞いた時はそうではないとの答えでしたがよくわかりません。父はそこから成田の職場まで通っていたようです。わたしが苦手な京成線に両親が詳しい理由はこのためのようです。

そんな生活の中、昭和42年に兄が産まれました。兄は産休後すぐに預けられ、保育園には1年しか行っていないそうです。
母が兄を預けた先は、職場の同僚から紹介してもらった方で、近所に住んでいたとある女性。その方にずっと兄を預けていたそうです。
母曰く「当時育休なんてなかったし保育園もなかった」とのこと。保育園がなかったってことはないとは思うんですが、ファミサポでお世話になった方も「私の頃は保育園なんてなかった」と言っていたので、保育園に預けるには今とは違う障壁があったのかもしれません。
そんな中、今でいうファミサポのような仕組みが口コミで成り立っていたようです。母の思い出話で「船橋のおばさん」として登場するのですが、
母「あんた船橋のおばさんのこと覚えてないの?」
兄「全然覚えてないよ」
のやりとりが必ずあるので、わたしはずっと親戚か誰かだと思っていました。

兄の就学前に、しかし母は仕事を辞めてしまいます。数えると奨学金を返し終わったのかなあと思える年数でもあります。母の表向きの理由は、「夫婦であまりにも仕事を忙しくしていて、お父さんが『これでは家族ではない』が言ったから」というもっともらしいものですが、「本当はお父さんが自分の稼いだお金を全部好きに使っちゃって、お母さんの稼ぎで生活を回してたんだけど、それが嫌になっちゃったのよ」という「公言している内緒の理由」があります。ほっこりします。

関係ない話ですが、両親の昔話には「職員室に来た業者さん」という表現が出てきます。今では信じられないことですが、昔って職場に物売りが出入りして、高価なものも月賦で買えたみたいです。そういえばわたしが社会人になりたての頃でさえも、情報処理系の仕事だというのに、出向先に保険の勧誘だのヤクルトだの出入りしていましたが。それにしても月賦で買うような価格帯のアクセサリーを仕事中にほいほい買って、母にプレゼントしてしまう父には、母はほんとに脱力しただろうなと、想像するだけでほっこりします。

そうして母が高度成長期の終盤に専業主婦に収まった後、わたしが産まれました。
わたしは2年だけ幼稚園に通っていた典型的な専業主婦家庭の子供となったので、兄との育ち方の違いに今更ながらびっくりします。

そして時代が変わり、もはや専業主婦家庭など富裕層となってしまった現代ですが、わたしから見ると、70代の母は共働き家庭に深い理解があるように見えます。理解もなにも自分たちがそうだったんですけどね。

まず生後3カ月の娘をファミサポに預けることを反対しなかった。むしろよく行動した、よく見つけたとねぎらってくれたのです。
その時はあまりなんとも思っていなかったのですが、あるブロガーさんがお子さんの預け先に困っていた時、実母に「他人に子供の面倒を見させるなんてダメだ」と言われたという話を読んで、初めて「うちの母はわたしを批判しなかったのですごい」と思いいたりました。

母は70代なのに共働きに理解がある。社会制度を利用して他人に預けることを批判しない、現代的な考えを持っている、そうとらえました。
しかし、最近そのことを兄に話したら、兄は「本当はいろいろ言いたいところを我慢しているのでは」との感想でした。そうかもしれません。首の座らない乳児を他人に預けざるをえない状況を思って言葉を飲み込む母。それなら自分が面倒を見ると駆けつけたいのに駆けつけられない母。そこまでは思いいたっていなかったのです。

娘の母となった今、自分の母くらいには人間できあがってると思ったのですが、まだまだでした。
わたしはまだまだ母の娘です。どうかまだしばらく元気で見守って欲しいです。

だからつい先日、母がベビーシートなしで自動車に乗せようとしたときにわたしが怒って、そのくせ「絶対に事故らないで!!」と怒りながらも乗ってしまったのはわたしが悪いです。母にも娘にも、ごめんなさい。