スナフキンの名言のひとつです。
皆わたしの旅の話を聞きたがるがなぜなのだろう。話ってしまったら、その旅を思い出そうとするとただ旅を語ったということしか思い出せなくなるというのに。
手元に本がないのであやふやですが、こんなことを言っていたと思います。
これは記憶というもののいろんな性質を言い当てているのではと思います。
わたしは記憶が悪いです。ほんのちょっと前のことでもすっかり忘れ去ってしまいます。だから日記やブログをしっかり書いて、せっかく経験したことや考えたことを記録しておかないと、なにもかも失くしてしまうのではないかと時々怖くなります。でもまあ日記を書くことすら忘れるわけですが。
わたしがスナフキンに自分の不安のことを相談したらなんと答えてくれるでしょうか。忘れてしまうならそれでいいじゃないか、とでも言ってくれるでしょうか。
わたしは今指輪物語を再読しています。この物語の重厚さに大きく寄与しているのは、登場人物たちが時折作る詩なのではとこの歳になってようやく思い至りました。たとい細かな記録をしなくても、詩や歌、伝承神話という形で繰り返し繰り返し記憶を語る。語り継いでいく。個人の記憶は消え去っていっても、こうして人類の大きな記憶は保たれていくのです。人々にとって、やはりなんらかの形で語るというのは必要なことではないでしょうか。こんなことを話せば、スナフキンもギターを手にニヤリとするかもしれません。
さてこの歳でヒトの子を初めて3年ほど育てているのですが、この子の記憶は本当にすごいと驚かされることが多々あります。まず自分の本はまるで表紙が読めるようにタイトルを言いながら手に取るし、内容も3度くらい読んでやれば、ところどころ覚えてしまって、まるで読んでいるかのように内容を再現してしまいます。
まだこの3歳児にとっては、過去は全て「昨日」で、まだ起こっていないことは明日以降ですら全て「今日」です。
でも、自分に起こったことをランダムに思い出しては、数ヶ月前のことだろうが数時間前のことだろうが、「昨日、◯◯だったよねー」と振り返ります。
そして赤ちゃんの頃のことをわたしに質問し、その答えを覚えて後日「あかちゃんの時は◯◯だったよねー」と繰り返します。
こうなってくると、もはや事象をそのまま記憶しているのか、聞いた話を再現しているだけなのかわからなくなってきます。
記憶を語り、語った記憶をまた語り、ぐるぐると続けていくことで、文明文化なんてたいそうなことは言わないまでも、ヒト1人が自我を持ち続けるに足る記憶の塊が出来上がるのです。そこに捏造記憶だの怪しげな胎内記憶だの、べつにあったってなくたっていいのです。
とりとめもない文章になりましたが、記憶というのは結局語ったことであり、そうでない純粋な何かをそのまま保持できるのは、スナフキンのような稀有な旅人だけなのではと思うのです。
そして唐突に旦那自慢になりますが、旦那さんは日記もブログも必要以上の手帳もつけません。彼はスナフキンに並ぶ稀有な旅人なのです。